Report
 
2015.05.25

第2回北極探検史(世界編)
北極探検史最初の悲劇
荻田泰永

北方をめぐるヨーロッパ各国の覇権争い

人類による南極探検がほんの200年ほど前から本格化したのに比べ、北極への探検がずっと早く始まった理由は、ヨーロッパをはじめとした北半球で近代文明が発展したことにほかならない。そして、人びとを北極探検に向かわせた動機の多くが「利益」によるものだった。

コロンブスがヨーロッパに存在を報告した新世界は、東洋(カタイ、中国のこと)への期待感を高め、新たな勢力圏を如何に拡げるかがヨーロッパ諸国の課題になっていた。

1494年、当時の二大海洋国家であったスペインとポルトガルは、新世界でお互いの衝突を回避するために、大西洋の西側の経線を境に支配地域を東西にわける「トルデシリャス条約」を結び、世界を二分していた。それにより、海洋国家としては後発のほかのヨーロッパ諸国は、東洋へ向かうためにまだ手が伸びていない航路を開拓する必要に迫られた。それまでのアフリカ南端の喜望峰を回る南方ルートではなく、北方に活路を見出そうとした。

北東への航路はノルウェーの北端が氷に覆われておらず、ロシアの漁師たちが行き来していることはすでにわかっており、遠くシベリアのオビ川まで通じていることは知られていた。

北西航路の端緒

一方、北米大陸の北側を行く北西航路に関しては当時まったくの未知であった。1497年にイタリア生まれでイギリスに移住したジョン(ジョバンニ)・カボットが最初の探検を行なったが、グリーンランドや現在のカナダ東部ニューファンドランド沿岸を周回しただけで帰国した。カボットは発見した土地をアジアの北東部と信じて報告したことで、二大海洋国家のひとつであったポルトガルの王・マヌエル一世は、「トルデシリャス条約上はポルトガルの支配地域になるはずである」と判断し、カボットの報告した“アジア”を自国領として宣言するための探検隊を派遣した。1500年、ガスパル・コルテ=レアル率いるポルトガル探検隊は、グリーンランドをアジアと誤認しポンタ・アジア「Ponta Asia(アジアの先端)」と命名し帰国した。

1551年、イギリスで北方探検を財政的に支えるための組織である「未知の地域、領土、島々、町村の発見のための商業冒険家の組合会社」が設立され、理事長にジョン・カボットの息子であるセバスチャン・カボットが就任した。その「組合会社」の最初の仕事として、ノルウェーの北からユーラシア大陸の北部を通過する北東航路探検隊が組織され、隊長として軍人のヒュー・ウィロビー卿が選ばれた。また、航海については疎いウィロビーを補佐するかたちで、副隊長にはイギリスで当代随一の航海家として知られていたリチャード・チャンセラーが選ばれた。

ウィロビー、チャンセラーによるこの探検隊は、極地探検における最初の悲劇を迎えることになる。

 ウィロビーとチャンセラーの命運

1553年5月、ウィロビー北極探検隊の3隻の船は、イギリスの港を出帆した。すべての船は商船として装備され、アジアの中心部から北極海に流れ込むように地図に描かれている大河を遡行できるよう、船底が浅く設計されていた。

出発後、すぐに異変は起きた。ノルウェー西岸の沖合で船隊は嵐に遭い、航海に慣れたチャンセラーの船と、隊長のウィロビーの船がはぐれてしまったのだ。通信機器など存在しない時代である。目視でお互いの姿が確認できなくなれば、予定通りの航行を続けていずれどこかで出会うことを期待するしかない。ウィロビー乗船のボナ・エスペランザ号ともう一隻のボナ・コンフィデンシア号は、ノルウェー北部を通過し、ロシア北部のノヴァヤゼムリヤ島を東に見るバレンツ海まで進んだ。そこでボナ・コンフィデンシア号の漏水が激しくなり、やむなくスカンジナビア半島の東に位置するコラ半島北部(現在のロシア、ムルマンスク州北部)の海岸まで引き返して投錨(とうびょう)した。

やがて、冬が訪れ船を動かすことができなくなったウィロビーたちは、その地での越冬を余儀なくされ、極地の寒気に慣れない者が一人ふたりと死んでいった。彼らの体を弱らせていったのは、その後の極地探検家たちを長年苦しめることになるビタミン不足からくる壊血病や栄養失調、また、狭い船内に多人数が籠って暮らしたことによる二酸化炭素中毒であった。こうして、ウィロビー率いる2隻の全乗員66名が死亡し、翌1554年にロシアの漁師によって彼らの遺体は発見された。遺体とともに残されていたウィロビーの日誌には、探検の詳細が記されていた。アザラシやトナカイの群れを見たこと。雪やアラレの嵐に出会い、それは真冬にしか見られないような激しさであったこと。そして、冬を迎え荒涼とした雪に埋もれた海岸線を、毎日のように方々探し歩いたが、人影ひとつ見つけられなかったこと。ウィロビーはそれらを書き記して息絶えていった。

一方、チャンセラーの船はどうしたのだろうか? 嵐の後、ノルウェー最北端のフィンマルクの見張り所に辿り着いたチャンセラーは、そこで出会ったスコットランドの商人たちに航海の目的がカタイへの北東航路探しであると話したところ「そんな気違いじみたことはやめた方がよい」と口を合わせて忠告された。イギリス随一の航海家であるチャンセラーはそんな忠告には耳を貸さず、その後も航海を続け、白海に面する現在のアルハンゲリスクに辿り着いた。

アルハンゲリスクでロシアの地方総督と会い、そこがロシアであることをチャンセラーは初めて知った。総督のすすめで当時の皇帝イワン4世に謁見するため、チャンセラーは陸路で2500km旅をし、結果的に皇帝からロシア国内での自由貿易の許可を得た。ふたたび船に戻ったチャンセラーは、1554年に自由貿易の許可という大きな手土産を持ってイギリスへの帰国を果たした。

(次回に続く)

【過去の連載記事】
第1回北極探検史(世界編)赤毛のエリクとグリーンランド

荻田泰永(おぎた・やすなが)

北極冒険家。1977年神奈川県生まれ。2000年より北極圏での徒歩による冒険行を中心に活動。15年間で13 回北極圏各地を訪れ、8000km以上を旅してきた。グリーンランド2000km内陸氷床犬ぞり縦断、カナダ北極圏1600km徒歩行、北磁極700km 単独徒歩行など。現在は北極冒険の最難関である北極点無補給単独徒歩到達に挑戦中。著書に『北極男』(講談社、2013年)。
http://www.ogita-exp.com