第1回 菊地凛子×礒貝日月
「イヌイット」を演じるということ
これまで、日本人の役しか演じたことのなかった菊地凛子が、はじめて挑戦することになった外国人の役は、「イヌイット」という未知の世界。
役づくりも兼ねてイヌイット文化に関する書物や資料を読むうち、小学校4年生の時にカナダ極北地帯のバフィン島にあるフロビッシャー・ベイ(現イカルイト)とパングニルトゥングという村を訪れたのをきっかけに、カナダ北極圏に携わるようになった本サイト運営者の礒貝日月にたどりつきます。
奇しくも「同級生」だった2人。カナダ北極圏を彷徨していた経験もあり、イヌイットについての著書も出版している礒貝日月と菊地凛子が、北極圏という厳しい自然環境に生きるイヌイット文化や風習、彼らの死生観について一緒に探求しました。
女優・菊地凛子の新たな挑戦
礒貝日月(以下、礒貝):はじめまして、こんにちは。
菊地凛子(以下、菊地):はじめまして。今日はよろしくお願いします。
私は今まで、いくつかの海外作品に出演してきましたが、いわゆる「アジア枠」なので、基本は日本人の役を演じてきたんです。かりに中国人の役だった場合は、日本人に代えてもらえる可能性がある役とか。
それが今回、スペインのイザベル・コイシェ監督から新しい作品に出演して欲しいとオファーがあったのが、イヌイットの役で。アジア人だからイヌイット役をできるだろう、みたいなアバウトな感じで……。
礒貝:ごめんなさい、ぼく全然知らないんですけど、その監督って有名な人なんですか?
菊池:スペインの女流監督で『死ぬ前にしたい10のこと』とか『エレジー』とか、いくつか有名な作品がありますよ。
礒貝:あ〜、知ってます! 有名な映画ですよね。菊地さんは今までその監督の映画に出演されたことはあるんですか?
菊地:はい。2010年に公開された『ナイト・トーキョー・デイ』で主演を演じました。
礒貝:じゃあ今回も、ぜひ、ということでオファーがあったのですか。
菊地:私としては、そういう想像力を持って自分のことを見てくれたのは嬉しいけれど、イヌイットについてはまったく知らないので、どこまで応えられるかどうか、いろいろ本などを読んでから決めたいと監督に言って。それでたくさんの本を読む中で礒貝さんに辿り着きました(笑)。
イヌイットの女性を演じることへの葛藤
礒貝:イヌイット役を演じることは、もう決まっているんですよね、正式に?
菊地:はい。地球上で最も住みにくい場所のひとつである極北を舞台に、2つの異なる世界で生きる女性の物語なんですが、探検家のロバート・ピアリーの奥さんのアラカというイヌイットの女性役を演じることが決まっています。
礒貝:設定はグリーンランドですか?
菊地:そうです。礒貝さんは、グリーンランドに行かれたことがありましたよね?
礒貝:カナダのヌナブト準州というところがメインになりますが、一度だけグリーンランドに行ったことがあります。
菊地:極北に関する本を読むと、日本ではカナダについての本が多いですよね。
礒貝:確かに、グリーンランドはあまり多くないですね。大島育雄さんの『エスキモーになった日本人』とか、彼を追ったドキュメンタリーなどはNHKでも特集されたりしましたけど。
撮影は、英語ですか。
菊地:そうです。でも、イヌイット訛りってありますよね。スペインにもイヌイットに詳しい学者の先生がいるので、何人かにお会いして、彼が実際現地に行って現地の方の声を録音したテープを聴いたりしているんですけど……。
礒貝:イヌイット訛り、結構特徴ありますからね。
ぼくは極北で英語も学んだんですけど、カナダの南部に行ったときに、イヌイット訛りの英語で通じないことが多々ありました。ホテルに泊まるときとか、通じないんですよ。
菊地:そうなんだ〜。
礒貝:「どこで英語を学んだの?」と聞かれ、「ヌナブト準州です」と答えると、「異国の地で学んだのね」とよく言われました(笑)。それくらいイヌイット訛りは特徴的かもしれませんね。単純にぼくの英語能力の問題だけかもしれませんが(笑)。
菊地:ですよね。やっぱりかなり不安があります。最後の手段はADR(Automated Dialogue Replacement)かな。アクセントとか正確にしようと思うと、撮影期間が短いので間に合わないんじゃないかと思うんですよね。
礒貝:ADRってアフレコ?
菊地:そうです。イヌイット訛りにばかり気を取られすぎると、大事なところを落としちゃうので。
礒貝:あと、いわゆる文法じゃなくて特徴的な英語を使っていて、たとえば『氷海の伝説』という映画で観たのですが、「あなたと肉体関係を結びたい」って言うときに「I wolf you.」って言っていたのは印象的です。サイトにも書きましたけど、あれは面白いな〜と思って。
菊地:すごい直接的ですよね。
礒貝:動詞じゃない単語を使って、「wolf」にいろいろな意味合いをこめるのは、面白いですよね。
菊地さんっていつもこうやって役づくりしているんですか?
菊地:そうです。
礒貝:すごいですね。感心します。
イヌイットの心の内面をさぐりたい
菊地:いえいえいえいえ(照れ笑い)。今回、この役に惹かれたのが、スペインでイヌイットに詳しいフランチェス先生から当時の彼らの暮らしぶりを聞いたからなんです。今回の映画は1890〜1909年という設定で、男性はハンターとして狩りに行き、女性は子を産んで火を絶やさずに男性の帰りを待つ。男性は歯で獲物を嚙みきるので、歯が欠けて狩りができなくなると、横たわってホッキョクグマに食べられるのを黙って待つ、というような。
礒貝:そうですね。
菊地:それで、礒貝さんの著作を読んで考えさせられたのが、イヌイットたちのホープ、つまり生きる希望ってどこにあるんだろうと。たとえば、自分だったら、疲れていたら休みたいとか、ストレス発散で飲みに行きたいとかあるじゃないですか。そういった欲望は理解できるんですけど、イヌイットの場合は何と言ったらいいのか……。
礒貝:もっと内面的な部分の欲求?
菊地:そう。楽しみって何だったんだろうとか。
礒貝:そういう意味では、男の人は完全に外に出て、女性が待つ。
菊地:でも、礒貝さんが著書で書かれているように、女性がすごく積極的に近づいてアプローチするシーンがありますよね。あれは?
礒貝:カナダ北極圏でも、この当時の探検家や来訪者の人たちと一緒になって子どもを産んだ人もいます。ぼくが通っていた村でも、異国人である西洋人の血が入っている人が結構います。
これはあくまで想像ですが、異文化の人と一緒になって子どもをつくるのって、結構勇気がいることだったと思うんですよね。
環境的に閉ざされた社会だから、異文化の人を受け入れて、セックスして子どもができたら、「あいつは西洋人とくっついてなにやっている」みたいに言われただろうし。
でも、本能的に外を受け入れなければいけないという女性特有の意識や閉ざされた環境だからこそ社会全体として外部に対しての受け入れ体制もあったんじゃないかな〜なんて想像しますけどね。
菊地:私は垣根なしに誰かに心の内側に来られたら「ビビる」ところがあったりするんです。ある種ちょっと暴力に近い部分を受け入れるときがあるっていうか。おそらく私も若いときに持っていたであろう、まっすぐな気持ちで100パーセントで来られたりすると、そういう本能みたいな、野性的な受け入れと同時に防御本能が働くのかな、と思いますけど、どう思いますか?
礒貝:もともと風習として客人に対して女性をもてなす、というのはあったので、西洋人に妻を差し出す、ではないけれどそういうのがあるのかな。でも女性側としてはたまったもんじゃないですよね。
菊地:フランチェス先生が言うには、アザラシを狩ったら全部食べてちゃんと供養するけれど、たとえばただのパフォーマンスのためにアザラシを狩ったとしたら、彼らは何て酷いことをするんだと涙を流して抗議するそうなんです。でも男性の歯がなくなって狩りができなくなったら用済みみたいな厳しい面があって、誰かが死んでいくことに関してはそこまでの関心を感じられなかったみたいなんですね。
礒貝:先ほどの「生きるホープ」じゃないけど、死に対してはクールな考え方を持っている民族かもしれませんね。極限のところにいるから、常に人は死んでいくということを肌で実感している。ぼくらは身近に死がないけど、彼らにとって、死はいつも直面している世界だから、死の受け止め方は全然違うかもしれませんね。それは言い換えると、「いかに生きるか」という「生」に対しての受け止め方の違いでもあるかもしれません。
(構成:相澤洋美)
(第2回に続く)
菊地凛子(きくち・りんこ)
映画『生きたい』でデビュー。
2006年、映画『バベル』でアカデミー助演女優賞にノミネート。以後、国内外を問わず数々の作品に出演。
主な出演作に2010年『ノルウェイの森』、2013年『パシフィック・リム』『kumiko,the Treasure Hunter』など。