Report
 
2015.10.23

第3回北極探検史(世界編)
北西航路に野望をいだいた探検家たち
荻田泰永

メルカトルが示した新たな航路

スペインとポルトガルという二大海洋国家に世界が二分されていた16世紀初頭。イギリスをはじめとした後発国は、当時「カタイ」と呼ばれていた中国との交易の接点を持つために、新たな航路開拓に迫られていた。スペインとポルトガルに抑えられ手の出せない南方の航路ではなく、北方に活路を見出そうと進出していったのが、ノルウェー北部を周回してシベリア北岸を東進する「北東航路」だった。

イギリスで設立された探検組合会社の主導によって、1553年に軍人のヒュー・ウィロビー卿と航海家リチャード・チャンセラーの探検隊が、最初の北東航路開拓を目指した。しかし、この隊は極地探検史最初の悲劇を招くこととなり、航路発見には至らなかった(第2回「北極探検史最初の悲劇」参照)。

その後もいくつかの探検隊が派遣されていたが、芳しい結果を得られずにいた1569年、世界地図における歴史上の一大事件が起きた。ゲラルドゥス・メルカトルによる「メルカトル図法」による地図が出版されたのだ。その地図には、北極地方の外郭が書きあらわされており、カタイへ向かう東方には遥かな陸地の障壁がありながらも、西方の北米大陸北岸には通過できそうな航路の出発点が示されていた。このメルカトルによる地図の発表によって、新しい探検の道すじが決定付けられた。つまりは、それまでの北東ではなく、北西に向かって行く航路だ。

フロビッシャーによる北西航路の開拓と先住民との邂逅

イギリスの野心的な航海家であったマーティン・フロビッシャーは、ロシアとの貿易を独占的に行なっていたモスクワ会社を説得し、自らが指揮を執る北西航路探検隊を組織することに成功した。フロビッシャーは、幼少期より叔父に船乗りとして育てられた優秀な航海士だった。

1576年春、フロビッシャーは2隻の小型船で北西航路発見の旅に出発した。グリーンランドへ上陸後、ふたたび船を西へと進めると、これまで誰も知らなかったひとつの「海峡」を発見する。フロビッシャーはいよいよアジアへの入口に到達したと判断し、その海峡に自分の名をつけてフロビッシャー海峡と名付けた(実は海峡は行き止まりの細長い湾で、現在ではフロビッシャー湾と呼ばれる)。

海峡の奥に船を進めて行くと、彼らは驚くべき光景を目にする。なんと、西洋人とはまったく姿形の違う、小柄な人間たちが皮張りの小舟に乗ってやってきたのだ。初めて目にするイヌイットのアジア的な顔かたちを見て、これはマルコ・ポーロが伝えたカタイの人びとに違いないと確信し、そのうちの一人を船に引き揚げ、ロンドンに連れて帰ることにした。

その年の10月、帰国したフロビッシャーたちを迎えたのは、カタイから連れてきたという不思議な小人に対する異常なまでの驚嘆だった。ロンドン中が開闢以来の大事件だと大騒ぎとなった。また、探検のなかで得た収集品にあった黒い石を火のなかに投げ入れると、さまざまな色にきらきらと燃えたという。その黒い石をある鑑定士が「金の鉱石である」と判断したことから、さらに大騒ぎとなった。すぐに金採掘のための「カタイ会社」が設立され、金鉱を掘り当てるためにスズ鉱山の鉱主らが次回探検のために集められた。金に躍った人びとは北西航路の発見のことはすっかり忘れ、翌1577年フロビッシャーは第2回目の探検にのぼった。

埋蔵鉱物へのあくなき欲望と絶望

2回目の探検では、ふたたびフロビッシャー海峡で3人のイヌイットを船に捕らえ、5週間にわたって周囲の鉱石を200トンも採取した。この鉱石に関しても、帰国後に鑑定士が金の可能性を指摘したことから、いよいよ金への期待が高まっていった。翌1578年には15隻もの船団に約100名の鉱夫を乗せ、大きな木造組立住居を造るための大量の木材や建築資材を用意した。それは本格的な鉱山開発のための植民を目的とした航海であり、もはや北西航路の発見は二の次となっていた。

しかし、船団が海峡に差しかかるとすぐに暴風が吹き荒れた。海峡奥から押し流れてくる流氷にもまれ、数隻を残して多くの船が沈んでしまった。植民計画は完全に失敗に終わり、残った船で夏の終わりまでに100トン以上の鉱石を採取して帰国するも、フロビッシャーはそこで思いがけない報告を受ける。なんと、これまでに採取してきた「金鉱石」は、何の役にも立たない無価値な硫化鉄鉱であることが判明したという。採取してきた鉱石は道路の敷石にされ、カタイ会社は負債を抱えて破産。フロビッシャーも面目を失うが、その後、航海術と探検の経験を買われて英国海軍に加わった。すると、持ち前の野心を燃やして海軍の司令官の一人となり、この10年後、スペイン無敵艦隊を破ったアルマダの海戦で功名を立てナイトの爵位を得ることになる。

北極圏に台頭する東インド会社

フロビッシャーの探検の後、北西航路探検で活躍したのはイギリスのジョン・デービスであった。1585年からの3年間、グリーンランドやバフィン島周辺を探検し、多くの正確で細心な叙述を残した。しかし、現在の地図を見返せば、まだまだ正しい北西航路の端緒にも着いていないことがよくわかる。迷路のように入り組んだ島嶼群は、この後300年にわたって探検家たちを惑わせることになるのだ。

積極的に北極への関心を示していたのはイギリスだけではなく、オランダも同様であった。オランダの宗主国であったスペイン帝国が1588年のアルマダの海戦で敗れて以降、次第にスペインの弱体化が進み、オランダは虎視眈々と新世界への道を模索していた。オランダの探検家ウィレム・バレンツによるスバールバル諸島(北極圏バレンツ海に位置するノルウェー領の群島)の発見は、17世紀からの捕鯨の活動拠点となっていく。

1609年、東洋との貿易を行なっていたオランダ東インド会社は、イングランドの航海士ヘンリー・ハドソンを雇い、北東航路の探検を計画していた。しかし、出発を控えた矢先にオランダはスペインから東方海域における貿易権を保証させたことにより、無用となった北極航路の探検から一転、念願だった利益の望める新世界への植民活動に専念しはじめる。ハドソンの探検隊はアメリカ大陸を目指し、ハドソン川を発見する。ハドソン川はその後、下流のマンハッタン島にオランダ植民地の拠点となるニューアムステルダムが建設され、それは後にニューヨークとなる。

ハドソンは何処に……

ハドソンを優れた探検家だと認めたイギリス東インド会社の出資者らは、自国の利益にならない雇い手の元に彼を置くのはためにならないと判断し、ハドソンに北西航路探検の使命を与えた。イギリスの出資によりハドソン探検隊は1610年にアメリカ大陸北部の探検を行ない、広大なハドソン湾を発見する。ついに太平洋に辿り着いたと誤認したハドソンは、各地を調査しているうちに秋が深まり、やがて海の凍結が始まると帰ることができなくなってしまった。

周囲は氷に覆われ、食料不足は深刻となり、やがて死者も出始めると乗組員の不満は日増しに高まっていった。翌年6月にようやく海氷が緩んで船が動かせるようになったところで、ついに乗組員の反乱が起きた。ハドソンは息子と7人の忠実な部下と共に小舟に乗せられ、食料も武器も与えられずに本船から置き去りにされてしまったのだ。その後、ハドソンたちを見たものは誰もいない……自らが発見した現在のカナダ・ケベック州、オンタリオ州、マニトバ州、ヌナブト準州に面する大きな湾に静かに眠ることになった。

バフィンによる歴史的発見

1616年、北西航路探検の歴史で19世紀以前のもっとも重要な探検が行なわれる。イギリスの航海家ウィリアム・バフィンは、自身の経験からハドソン湾は出口のない閉ざされた海だと判断し、さらに北の海に北西航路を求めた。バフィンはグリーンランド西岸を北上し、ヴァイキングの時代以来誰も進出していなかった海域に入った。後にバフィン湾と呼ばれるグリーンランドとカナダ極北部に挟まれた海域こそ、19世紀にふたたび本格化する北西航路探検の重要な「入口」だった。

バフィンは、北部にスミス海峡を発見し、そのスミス海峡は300年後の1909年にアメリカのロバート・ピアリーが北極点到達を果たすために何度も挑んだ「北極点への道」であり、同様に発見したランカスター海峡は、200年後に多くの歴史を産み出す「北西航路の入口」であった。また、この探検でバフィンは航海中にコンパスの針に大きな動きがあるのに気付き、それは北磁極が近くにあるからに違いなかった。

失われた200年。そして、19世紀へつづく道

バフィンの発見は、19世紀以前の北極探検史において非常に重要な発見であったにもかかわらず、その価値に気づく者はこの時代に誰も現れなかった。それどころか、その後の地図からもバフィン湾の存在は削除されてしまった。人びとは広大なハドソン湾でイヌイットとの毛皮貿易に勤しみ、各地に貿易拠点となるハドソン湾会社の交易所を設けるに留まった。

世界の情勢は一変していた。太陽の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインは力を失い、オランダも舞台から消え、フランスがとってかわった。17世紀末からイギリスとフランスは、第二次百年戦争と呼ばれる長い戦略戦争の時代に突入し、各地で植民地戦争を繰り広げていく。当然、北極探検など行なう余力はなく、北西航路は200年間忘れられる存在となった。

しかし、その戦略戦争の最中に北極地方への進出を図ったのが、ロシア皇帝に即位したピョートル一世だった。太平洋への植民地活動を行うにあたって、広大なシベリア平原をひたすら横断し森を切り拓いていくよりも、北東航路開拓はより経済的で、またロシア人の剛勇さを他国に誇れる一大事業だった。

1725年、東方への探検の命を受けたのは、ヴィトゥス・ベーリングだった。アジアとアメリカ大陸が陸続きであるのかどうか、そして通行可能な海峡であるのかを調べることに重点が置かれた探検だった。

(次回に続く)

【過去の連載記事】
第1回北極探検史(世界編)赤毛のエリクとグリーンランド

第2回北極探検史(世界編)北極探検史最初の悲劇

荻田泰永(おぎた・やすなが)

北極冒険家。1977年神奈川県生まれ。2000年より北極圏での徒歩による冒険行を中心に活動。15年間で13 回北極圏各地を訪れ、8000km以上を旅してきた。グリーンランド2000km内陸氷床犬ぞり縦断、カナダ北極圏1600km徒歩行、北磁極700km 単独徒歩行など。現在は北極冒険の最難関である北極点無補給単独徒歩到達に挑戦中。著書に『北極男』(講談社、2013年)。
http://www.ogita-exp.com

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